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不法占拠だとwwwwwwww [日本史豆知識]

中国紙、「沖縄は日本が不法占領」との論文掲載   (2010/09/19  産経新聞)

 19日付の中国紙、環球時報は琉球(沖縄県)は明治政府が19世紀末に清国から奪い取ったもので、日本政府は今も沖縄住民の独立要求を抑え込んでいるとの趣旨の署名入り論文を掲載した。

 中国大陸に近い尖閣諸島(中国名・釣魚島)については中国領であることは明白で「日本には中国と話し合う資格もない」と結論付けている。

 筆者は在日中国大使館勤務経験がある商務省の研究者、唐淳風氏。

 論文ではかつての琉球王国住民の大部分は福建省浙江省、台湾付近の出身で、言葉も制度も中国大陸と同じだったと断言。

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( ´,_ゝ`)プッ 中華人民共和国は、明朝・清朝時代を否定しているのではなかったでしょうかねぇ? 

不法占拠だってw、薩摩藩が琉球に侵攻したときに放置したのは明朝でしたねw

不法占拠といえば!チベット・ウイグルですょねw

沖縄在住のブロガーさんが、「琉球王国史」について紹介しているのがありましたので転載させていただきます。  (中・高校の日本史で琉球王国史についての記述は少なめでほとんどスルー状態だったような…記憶があります。)

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琉球が中国の隷下に入ったのは1372年、明国皇帝が琉球に

朝貢を求めてきたことから始まったとされている。

当初、恐る恐るこれに従った琉球はその莫大な返礼を見て驚嘆した。

以後、これを「唐一倍(トーイチペー)」(利益が甚大という意味)と呼んで

10割近い儲けを甘受するようになる

甘受→意味:やむをえないものとしてあまんじて受け入れること。

戦前のジャーナリズムではこの華夷秩序への参入が沖縄の県民性から

尚武進取の気概を奪ったとさえ評している

尚武進取→意味:武道・武勇を重んじること。みずから進んで物事に取り組むこと。

戦前のジャーナリズムは今の常に沖縄に同情的な風潮と違い

ダメなものはダメと堂々と批判できていた。

明は建国以来鎖国政策をとっており、外国船の出入港も朝貢船に限定した上

冊封国に支那人を在留させ朝貢貿易の政務を担当させる朱明府をおいた。

これは冊封国に支那人を在留させ、その国を間接支配することにある。

そして、琉球は薩摩藩が侵攻する1609年まで約237年間、その監督下に置かれる。

那覇市内には久米と呼ばれる地域がある、ここは14世紀以来中国の居留地域と

なっていた。

明が滅び清国が成立した時、満州族の支配を忌避して明人、すなわち漢族の

三十六姓の家族がこの島に移民してきたとされる。

以下、久米村の支那(中国)人のことを久米村人と書き、久米村の士族を久米士族

元々沖縄に居た士族を土着士族と書きます。

ちなみに久米村人(久米三十六姓)とは簡単に説明すると

「琉球王国だけでは成しえない航海、造船等の技術を持ち進貢に
不可欠な外交文書の作成、通訳、商取引にあたった。
琉球王国と中国や東南アジアとの海外貿易をになったエリート集団と
技術者の集団で構成されていた「久米三十六姓」は琉球王国の官吏や
学者などに抜擢され王朝時代の礎を築いた人のことです。

琉球で名政治家といわれる蔡温(さいおん)や程順則(ていじゅんそく)も

この久米村の出である、ことでもその優秀さが分かると思う。

ちなみに久米村では19世紀になっても中国語が話されており

久米村人は日清戦争の終了まで沖縄をことごとく中国圏に留めようと画策していた。

では、琉球王国の王と久米村人との関係はどのようなものだったのだろう?

琉球王尚泰の四男尚順はその遺稿で首里王城の正月の光景こう回願している。

「五族の大旗を建て、国王が北京の紫禁城に向かって遥拝される式であって
設備装備は純粋の支那風によって挙行され、左右より羽扇を翳して国王が進み
来られると同時に黄冠、紅冠をつけし唐栄(久米村人)の連中ばかりの活動で
黄色のクロスを掛けたテーブルの上には龍紋彫の黄金の香炉を置き、海南に
沈香を薫いて礼拝を行う。(中略)黄冠をつけた久米の先生達が
ケーウ、ケーウというのは中国語の叩頭のことだ(後略)」とある。

こうして首里城では欧米人が世界で最も屈辱的な礼式と批判した

三回跪き(ひざまずき)九回地面に額をこすりつける三跪九叩頭の礼が

執り行われている。

三跪九叩頭の礼↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B7%AA%E4%B9%9D%E5%8F%A9%E9%A0%AD%E3%81%AE%E7%A4%BC

三跪九叩頭の礼は冊封国の中でも実際に滅ぼされた朝鮮と琉球王国でしか

やられていないのだが、滅ぼされた朝鮮はわかるとして、なぜか滅ぼされて

てもいない琉球王国もやっていたのである(?_?)。

首里城にある守礼門に掲げてある「守禮之邦」の守禮とはこの三跪九叩頭の礼の

ことを言い、之邦とはちっぽけな国という意味である。

今でも中国人が日本人のことを小日本(シャオリーベン)と蔑称で呼ぶが

その元祖が琉球王国にあったことは感慨深いものがある。

次にこの支那(中国)から移民である久米村人がいかに琉球王府の政権に固執したかを

物語る歴史的な事件がある。

それが19世紀初頭に起きた官生騒動(かんしょうそうどう)である。

官生騒動は、官生の一件で久米村人が騒ぎ出したストライキであって

近代琉球史上の一大事件である。

これは、琉球近代の名君尚温(しょうおん)の時代に、従来久米村の方から

支那の国子監に出していた官生四人の中から二人だけは土着士族から出そう

とした時に、久米村人がいたく反対をとなえ、遂には大騒ぎをやらかした

事件である。

この事件を書くに先立ち、少し官生の歴史を述べることにする。

琉球が始めて支那に通じたのは、明の光武の5年である。

当時琉球では三王が鼎立(ていりつ)して相戦っていたが

鼎立→意味:鼎は「かなえ」と読み古代中国の金属製の器こと
      ふつう3本の脚がついている。王侯の祭器や礼器と
      されたことから、のち王位の象徴となった。
      鼎立とは鼎(かなえ)の足のように、三者が互いに
      対立することを言う。

時の中山王察度が明国に通ずるに及んで、他の二王もまた争そうて

臣を朱明に称し、二十年後の(光武二十五年)中山、南山の二王は始めて

王子及び陪臣(ばいしん)の子を明国に遣わして太学(たいがく)に入れた。

陪臣→意味:臣下の臣のこと。

これがそもそも官生の初である。

官生とはやがて今日の官費留学生(国費留学生)のようなものである。

官生の歴史は古文書に詳しく書かれているが琉球王尚貞王(しょうていおう)の

冊封時代の時に土着士族らを最初に派遣したのだが、官生の成績が悪く実に遊学

学びになれていない貴公子の連中は到底長期の就学に耐えないで、皆ことごとく

失敗に終わっている。

そこで尚真王(しょうしんおう)が中央集権を断行した頃、王府は土着士族の

官生を廃して、久米村人の中から官生を出すことにした。

彼らは琉球に帰化してまだ百二十八年にしかならなかったから、彼らが支那に

留学するのは、あたかも植民地人が本国に遊ぶ心地がしたのであろう。

なるほど久米村最初の官生四人は五年の月日を経て国子監を卒業して帰っている

次にいった官生四人も七年間の修行に耐え無事に帰ってきている。

それから琉球の教育権は全く久米村人の掌中に帰したのである。

ちなみにここで面白い話があるが、優秀な久米村人もこれから百年経つと

琉球化がすすみ、土着士族の怠け心がうつり中華の文物を浅く習得し琉球に

帰り愚民たる土着士族に教え込んでいたという。

ここで愚民と書いたのは私が歪曲したものではなく当時の状況を書いた漢文に

そう書いてあるものである。

かくして国子監で学んだ官生の成績は思わしくなかったが、自費又は半官費で

福建(今の福建省)で学んだ連中の成績は実にはかばかしかった。

程順則(ていじゅんそく)や蔡温(さいおん)は後者に属すべき人で

久米村の運命は実はこの人々によって繋ぎ止められたのである。

そして程順則、蔡温の時代は久米村の全盛時代であって、また琉球の全盛時代

であったと沖縄文学の祖、伊波普猷(いはふゆう)は言っている。

特に政治的天才なる蔡温は格外から抜擢されて四十七歳で

三司官(さんしかん)となった。

三司官→意味:士族の最高位、琉球行政の最高責任者

久米村の蔡温は沖縄の蔡温となったのである。

これで初めて教権と政権が一致したのである。

私のブログの中に

1392年に琉球に帰化した人の290年後の子孫である
蔡温(1682生まれ)まで「寄留民」というのは
あまりにもお粗末です。

とうい意見があったが寄留民である久米村人は何年住んでも支那人であり

土着士族とは一線を画した存在である。

現に蔡温が三司官になったときには、門閥を重んじる土着士族には

あくまでも彼の政治に反対する意見があったが自分に反する

平敷屋朝敏ら土着士族を蔡温は処刑している。

この類の事件は琉球王国時代、多く存在していて

近年で言えば、1859年に行われた牧志・恩河事件(まきし・おんがじけん)

がそれである。

その十七年後にも同様の事件が起こっている。

伊江王子朝直(いえおうひちょうちょく)、宜野湾親方朝保その他随行員三十名が

東京に派遣され天皇に歓迎され祭に、天皇が「国王尚泰を琉球藩主となし

華族に列する」と発言されたことから、日本からの冊封をうけたとして久米士族は

宜野湾親方を漢奸(はんがん)と批判し、そして三司官の公職から追放し

漢奸→意味:中国に対する反逆者、売国奴

さらに迫害し、それから四年後、明治九年にこの世を去った事件である。

牧志も宜野も長命であれば廃藩置県後の沖縄の振興にいかに

寄与したことであろうか。

話は戻り、自分に反する土着士族をことごとく処刑した蔡温は思う存分に

琉球王府を経営した蔡温であったがその活躍ぶりに、危機感を持つものが表れだした。

今まで、官生つまりは琉球王国の教権(教育権)を独占していた久米士族だが

政権は土着士族にあった。

だが、その政権までもが久米士族に奪われようとされていることに

危機感を抱いたためだ。

土着士族は、久米村から第二の蔡温を出るのを防いで、土着士族の方から蔡温を

出す準備をしたのであろう。

由来政治に熱中する人民は政権さえ握れば、教権の如きは何人の手に委ねても

差し支えないと考える傾きがある。

数百年間政権を握っていた土着士族も、教権は全く久米村人に委ねて顧みな

かったのである。

ところが、蔡温の活動を目撃するに及んで、初めて最も賢き政治は

政権と教権とを併せ握ることにあるということに気が付いてこの度の問題を

引き起こすに至ったのである。

土着士族の政治思想の一進歩であると言えるであろうが、まこと今にも通じる

教育をないがしろにする沖縄社会の根底を見た気がするのは私だけであろうか?

政治闘争に一生懸命になり、教育をないがしろにする今の沖縄のその姿勢は

500年も前の琉球王国時代にも同じことが言えているのは苦笑せざるえない。

話は官生騒動に戻り1801年、尚温王は琉球王府の教育権に主体性を

もたすべく首里に国学を作り、官生四人の枠の二人を土着士族から出そうとした。

これを知った久米士族や久米村人は猛烈に反発し、暴動がおきたのだ。

そしてこの年、尚温王は十九歳にして没する、これには久米士族から毒殺

されたという説も強く残っている。

世継ぎの尚成王も三歳にして立ったが、僅か数ヶ月で死に、尚温王の血統は

全く途絶えている…。

かくして琉球のまた闇黒な久米士族、久米村人が跋扈する時代に

再び戻ることになる。

琉球王国史は土着の琉球士族vs支那(中国)からの寄留民久米士族及び

久米村人という見方をすれば、かくも面白い見方が出来る。

http://itokazukeiko.ti-da.net/e2429973.html

中国のご都合主義に同情するな!

 


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